2015年10月16日金曜日

「街のクラブチーム」から「全国区のクラブチーム」を目指して

私が指導者になったのは30歳からである。その時は現役を引退して、永年お世話になってきた社会人主体のクラブチームでコーチングを始めた。ある意味“指導”とは何かもわからずにスタートをした記憶がある。ただ今も昔も変わらず、「サッカーにはまじめに取り組みなさい」と言い続けてきた。今もその“まじめ”の奥深さを追及しているとともに、どうしたら吸収率の高い選手を育てられるかという永遠のテーマに挑んでいる。

その後、恩師が運営していた名古屋GJというチーム(後に名古屋フットボールクラブの母体となる)の小学5年生(後の名古屋フットボールクラブ・ジュニアユース1期生の中心)を担当させてもらうようになった。
いろいろな意味で個性あふれた選手が多く、その選手たちが6年生の時に愛知県代表で読売の全国大会に出場したのが、指導者へのめりこむきっかけになったように思う。

読売の全国大会に出場した中心選手3名が名古屋グランパスのジュニアユースに入団したが、それ以外の選手に関しては、当時キャプテンであった選手の親御さんが中心となり、独自のジュニアユースチーム創設の流れになっていった。その流れの中、監督を引き受けることになって名古屋フットボールクラブの創設となった。
運が良いことに、個性あふれる選手が多かったことや、全国の舞台で悔しい思いをした選手がほとんどということもあり、上を目指すにはもってこいのスタートとなったように記憶している。

この年代はJリーグができ、小学生達がJリーガーを夢見てサッカーを始めた選手ばかりである。しかしながら、この夢をみさせつつ、夢を成就させるには相当に厳しい現実を理解させ、努力させ続けることなど、先に書いたことをしっかり身につけた上で次のカテゴリー、すなわち高校へ送る責任を感じつつスタートさせた。

名古屋フットボールクラブを本格的にスタートしてからは、とにかく強豪チームに頭を下げて武者修行を続けた。3年後には高円宮杯の愛知県大会で優勝し、その後愛知県チャンピオンを3年連続(1期生から3期生)獲得することになる。

1期生が高円宮杯東海大会も勝ち抜き全国大会3位、優勝・清水エスパルス、準優勝・読売ヴェルディ、3位・ジュビロ磐田と名古屋フットボールクラブという成績を収め、“街クラブの頂点”に立った時が、“街のクラブチーム”から脱却し“全国区のクラブチーム”を目指すという方向性が見えた瞬間である。

 “全国区のクラブチーム”となるためには何が重要かを考えた時、ベースとならなければならないのは、やはり“まじめさ”であると感じた。

チームカラーとして“あいさつ”“身だしなみ”を厳しく指導、また、今でこそ当たり前だが、移動用のジャージ・シューズ・バッグを揃えて(あえて費用をかけて)“規律”を重んじてチームの大切さを強調、さらには私生活・学校生活・勉学についてもかなり厳しく指導をした。

当時は、若い指導者がJリーグクラブの下部組織を指導していることが多い中、オンザピッチだけでなくオフザピッチにおいて、それなりの存在感を示すことができていたことが、後々の全国の高校サッカー界とのパイプ作りに繋がっていったと実感している。

小崎 峰利