2022年11月25日金曜日

心技体2

随分前に心技体というテーマで、なぜ"心" "技" "体"の順番なのか?という話をしたことがある。
育成年代を長く見ていると、ますます心の部分にフォーカスしたくなる。

最近は、大学生には「サッカーはメンタルスポーツだ」と言っている。
サッカーに限らず、全てのスポーツはメンタルから始まると言っても過言ではない。

上手くなりたいという心
勝ちたいという心
負けたくないという心
諦めない心
継続できる心
思いやりの心
感謝の心
敬う心
仲間(チーム)を思う心
リスペクトの心
熱い心

これらの"心"とアタマで考える事の連携が必要ではあるが、数々の"心"の充実があってこそ、初めて物事の成就がある。

心技体の一番初めに"心"があるのは、やはり技術も体も"心"の充実によって成立しているという事である。
小崎 峰利

2022年11月10日木曜日

妥協と我慢

妥協という言葉は使いたくないが、現代の若者は厳しくされることにアレルギー反応を起こすものが少なくない。

しかしながら、厳しい事を言ったり、ある意味やらせる事は最低限必要である。
全ての事柄、例えば社会生活において挨拶の必要性を説き実行させる。
また、サッカーにおいてのインテンシティを上げる必要性を説き実行させる。

厳しく言ったり、やらせなければ、それぞれの実行の基準が違う為、成長の度合いに差が出てくる。

極端に言えば、やらないものはやらない。やりたくないのだ。
やりたいものだけチョイスして、やれるものだけに厳しさを求めてやり続ける事が育成にはよくないと考える。

よって言葉は悪いが、俗に言うノンビリな性格や競争が苦手な選手には、ある程度の妥協をしながら、また、我慢をしながら辛抱強く厳しさを説いていかなければならないと思う。
これからの指導者や教育者は本当に大変な時代を迎えることになりそうである。
小崎 峰利

2022年10月21日金曜日

人生

長いことサッカーという難しい競技の指導者をやってきた。

自分がプレーヤーとしてやり切り、息子達がサッカーに目覚め、その頃から指導者もどきで指導を始めた。プロになりたいという夢を大きく持ち始めた小学生への指導からスタート夢と現実のギャップに少しずつ疑問を感じ始めるかなり難しい中学生の指導に心血を注いできた。

またここ10年は、社会への旅立ちを目前に控えた大切な時期を過ごす大学生という本当に難しい年代を預かり、指導者として集大成に差し掛かってきたと感じる。

自分の人生もありがたいことに紆余曲折を経ながら、またある意味苦しい状況と戦いながらここまで来た。

最近よく考える人生がある。
それはサッカーをプレーヤーとして小さい時からやってきて、大学生になり、さあこれから社会人だという時に何か明るい未来を考えたり、目指したりする学生が少ないことにある種の危機感を覚える。
最低限、社会に出てから困ることのない作法や考え方、向かい方を説いて来てはいるが、”何かをやる”という希望を持った学生の少ないこと・・・。

その中でも、「僕はコーヒーが好きなのでコーヒーを栽培したり、売ったりなどコーヒーに関わる仕事をしたい」とビジョンを持っている今年の大学卒業生が、インターシップで作ってきたと自作のコーヒーを贈ってくれた。

家内と一緒に飲んだ。
とにかく美味かった。口に合うとか、香りが良いとかとは全く違う美味さを感じた。
何となく嬉しくなった。

この選手は4年間真面目にサッカーに取り組み、私の言う社会に出て困ることなのない考え方などの社会性はしっかり身に付けて卒業をする。
その後は分からないが、コーヒーという自分の好きなことに向かって行けることに嬉しいと感じているはず。

彼の人生からサッカーはひとまず傍に行くことになると思うが、サッカーのプロになれなくても社会人としてプロになっていくんだと何故か人生を考えさせられた。
また美味いコーヒーを送ってきて欲しい。
小崎 峰利

2022年10月4日火曜日

チーム体質

上手い選手が多いね!
パスやドリブルを駆使してボール支配率も高いね!
というようなチームは結構ある。

しかしながら、90分間戦いが継続出来ない。

失敗をすると下を向いたりちょっとしたフリーズがあって切り替えが遅くなり、プレーに粘りが無くなる。
また、守備にこの粘り強さが無く、淡白になってしまうとあっという間に失点をしてしまう。上手さと粘り強さが融合して、それを継続出来るチームが勝負には強くなるはず。
これは個人では形成できない。

我々指導者(監督)はこのようなチーム体質を作り上げるのに苦労する。
この体質はグランド内だけで形成することは難しい。
日々の生活の中から意識してやらなければ、勝負に強い体質は作ることは不可能である。
当たり前のように、サッカーの強さにこのようなチーム体質は大切なのである。

私自身の体質改善も難しいし苦労している。
チームの体質形成も難しいものである。
小崎 峰利

2022年9月20日火曜日

ストレス

最近、様々な年代の様々な指導者のコーチングの言葉や声のトーンや声の質、はたまたコーチングのタイミングなどを聞いていると、選手たちがストレス無くしっかりと頭の中に入れ込める状態か否かを考える。
そうすると、指導者の口調やタイミングでストレスをきえているんじゃ無いかと思えるシーンに見えてくる事もある。

昔は、怒鳴ることも当たり前の時代があったのも事実。
しかしながら、長年教えられる選手目線で見る事が多くなってきた現在は、指導者と選手の教える教えられるの関係を色々な角度から眺めると、教える側の指摘と熱量が教えられる側からみると、ストレスを感じてしまって中身がスカスカの状態の選手も散見される。

この様な状況が続けば、指導者、選手共にストレスを抱えることになる。
いくら言っている事が大切かつチームや個人にとって重要な事でも、受け取る側にストレスがかかって選手が吸収できなければ、優秀な中身の指導でも優秀かつ信頼される指導者にはなれない。

指導者は、コーチングの中身と選手がストレス無く聞く事ができる口調やトーン、それと語彙力を高めなければならない。
絶対にヒステリックにコーチングしてはならない。

今一度、自分のコーチングを客観的に見直してみることも必要である
小崎 峰利

2022年9月1日木曜日

優しい性格

「あの子は優しいからね、戦えないんだよなあ。」とか、

周りの選手からやコーチから厳しく言われると、萎縮をしてしまう選手の多い事。

スキルが高くても性格からくるものなのか、大胆なチャレンジが出来ない選手が数多くいる。

しかし、沢山の選手を見ていると、このような選手は何となく物足りないが、親からすると本当に手の掛からない、また人に優しく思いやりのある子が多いのも事実である。

指導者としては本当に物足りなくはあるが、親目線で考えたり、将来像を見てみると、人として良い感じの大人になっていくだろうなと勝手に想像している自分もいる。

あるJリーガーで今はオジサンになっている選手と話をした事がある。
「タッチラインを跨いでオンザピッチになった瞬間に闘う鬼になるんですよ!小崎さん。」
「タッチラインを跨いでオフザピッチに出たら人を思いやれる人間になるんですよ。」と言っていたような記憶がある。

ある意味二重人格の様な感じではあるが、それ以来優しく物おじをしてしまう様な選手には、この話をよくしてきたものだ。

サッカーとは、人生とは、ある所では戦い(闘い)、ある所では優しく思いやりのある性格になれる事が望ましいと考える。
小崎 峰利

2022年7月27日水曜日

最近考える指導者の指導

指導者という職業は、生産性の高低がよくよく分からない職業である。

勝利という生産性(このような表現は違うかもしれないが)を高めるために、指導者をやっているわけでは無いが、プロフェッショナルコーチはこの限りではないかもしれない。

私の指導対象は、育成年代である。
もちろん、勝利に対するメンタリティーも必要。
ただ、プライオリティについては難しい。

私も随分昔は、勝利に執着した時代もあった。
最近は、若い指導者の養成にも力を入れなくてはいけないと感じ始めて、指導者の指導もやり始めている。

これまたサッカーを教えるよりも難しい。
サッカーが好き、子供が好き、指導者になりたいなどなど動機は素晴らしくても、やらなくてはいけない事は多々ある。

トレーニングメニューの作成、スケジュール調整、マネージメント能力も問われる。
最初からそこそこできる人、全くもってチグハグな人、何度も同じことを言わなくてはいけない人。色々な人がいる。

私たち指導者は、人を伸ばす事が目的。
仲間を伸ばす(指導者仲間)事も勉強である。

私たちの仕事は難しい。
指導者として報酬を得ているのなら、何を根拠に報酬額が決められるのであろうか?
サッカーを教える事以外も含めてできるから、報酬額が高くなるわけではない。
はっきりとした生産性が図れない無形の仕事に対する報酬でもある。

高い低いは、一般企業と同じくトップが決める。
選手と信頼関係が築けるか?
失敗しても学ぼうともがく事ができるか?
パッションがあるか?
コツコツやる事ができるか?
私は、このような無形の事に重きを置いてきている。

素晴らしいトレーニングメニューが考えられるとか、選手を画一的に従わせる事が出来ることとかは関係ない。

とにかく人と人、ここが大事。
もっともっと謙虚に選手と向き合おう。
もっともっと若い指導者に指導の原点を教えたい。
小崎 峰利

2022年7月11日月曜日

教わる楽しさ

どれだけの子供が、教えてもらう事の楽しさを理解しているだろうか?

教えてもらう事、それは昔も今も決して変わる事のない図式である。

学校教育においても、教師が授業をして、子供達が授業を受ける。
このシチュエーションにおいて、子供達が「なるほど!」と思い、嬉しいとか楽しいとかいう感覚をどれだけ持っているだろうか?

また、教師や我々指導者は、選手や子供にどれだけ納得の上楽しまさせる事ができるか。

子供達が教わる楽しさを感じる事ができれば、自ずと上達は見えてくるし、勝利にも近づくと考える。
そのためには我々指導者は、すべての事柄にあらゆる角度からアプローチできる「技」を身につける必要がある。

皆さん、まず子供達に「教わる楽しさ」感じさせてあげられるように努力しましょう。
小崎 峰利

2022年6月15日水曜日

やらせるのではなく、やるようにさせる

育成年代に必要な事は、今も昔も変わらず自ら進んで物事に向かう事である。

しかしながら、昔は「これをやりなさい」が多かったのも事実である。
私もそのような言動が多かったような気もする。

ただ、思い返してみると、やらせてきた後には必ず「何故これをやる事が必要か」また「これをやる事によって何が有益か」ということを切々と論じてきた事も事実である。

育成年代の選手達に限らず、子供は無垢である。
その無垢な子供へのアプローチとしては、まず持って体感させる。
その後に「何故?」なのかを説く。

この繰り返しによって、選手達は自らやるようになるのである。
やらせっぱなしの指導者からは、”上手い選手”は育っても”良い選手”は育たないであろう。
小崎 峰利

2022年6月1日水曜日

効率

トレーニングには、すべて目的がある。

そのトレーニングをすることで、効率よく身につけられる事ができれば、それに越した事はない。
しかしながら、やればやるだけ身につくトレーニングもあれば、やってもやっても身につく事がないトレーニングもある事を知らなければならない。

私の経験からいけば、反復練習でさえ頭からの指令を持ってやるのと、ただ単純に繰り返すだけでは身につく効率が大きな差があると感じている。

当然のことのように、少年期は個人スキルを中心に反復練習が多い。

歳が上になっていけば、またサッカーをチームで学ぶ時期になれば、当然のことのように反復だけではダメな部分のウェイトが高くなってくる。

状況に応じて、いかに効率よく動いたり、予測したりなどのスキルを身につけるためのポゼッションのトレーニングを同じ時間していても、「動き出しのタイミング」「ポジション位置どり」などと、コーチングされて初めて動く選手の身につく効率が悪いこと。

選手の皆さん、効率よく身につけられるには反復だけではない事を覚えておいて下さい。
小崎 峰利

2022年5月20日金曜日

やらせることなかれ

昔は、やらせてきたな。

現代は、やらせちゃダメなんだな。

長い事教えて来ていると、教え方に違いが出てくる。
確かに、やらせないとダメな選手がいるにはいる。

しかしながら、やらせるのでは無く、やっていただく。
やっていただくということは、やらなくてはダメなのだと本人が気がつくのだ。
ここがミソ。

現代は、誉めて伸ばすということをよく言う。
褒めて伸ばすのでは無く、褒めることによって、やらなくてはダメなのだということに気が付く

昔は、やれやれと言ってやらせて来た。
やれやれと言うことで、やらなくてはダメなのだと気付かせる。

やり方は正反対だが、目的は一緒。
どちらも「やらなくてはいけないんだ」「やるべきなんだ」となる。

結局やるのは本人。
我々の仕事は、どこかのCMにあったように選手のスイッチを入れてやることなのだ。
スイッチの入れ方がちょっと違うけどね。
小崎 峰利

2022年5月13日金曜日

人を動かす

サッカーにおいてというか指導者において、また、選手間でのコーチングにおいて、”人を動かす”にはどうしたらよいか?

社会人時代でも、子育て時代にも、はたまた指導者なりたての頃は「やれ!」とかなど、よく命令してきた。

選手の間でも、「何でできないんだよ」「やれよ」など何か命令口調が散見される。

物事の本質は、やる事に対しての理由が必要。

この理由が分からないというか、必要性を真剣に理解して始めて「やらなければならない」になっていく。

人を動かすには命令ではダメ。

何で動かなければならないかの理由と必要性をトコトン理解させるようにすれば、自ずと実力が上がる。
小崎 峰利

2022年5月11日水曜日

FWの適正?

トレーニングやゲームの中で、ポゼッションのトレーニング、また、ゲームであればボールを奪ってから攻撃に転じた時のFWの動きのみを注視していると、最も近くにいるサポート選手は別にして、ボールホルダーに知らず知らずの内に近づいて行く選手と、何故かしら離れて行く選手を見かける。狭いスペースでボール回しなどをしている時にもこのような現象を見かける

もちろん、年齢が上がれば当然のことのように次のポジションを取ろうとして離れていくのは理解できるし、年齢が上がって教えられれば当たり前のようにできる行動である。

幼稚園などでサッカーをやらせるとダンゴ状態になるのがこのような現象。
ボールに寄るのは本能なのである。

しかしながら、攻撃の本能として、いずれこのスペースにボールは来るであろうという感覚(本能)がある選手もいる。

次の次を狙う本能のある選手を、小学校低学年で探すのは楽しいと感じる今日この頃。
小崎 峰利

2022年4月22日金曜日

五分の三感トレーニング

五感(視、聴、味、嗅、触)の中でサッカーに必要な三感、味と嗅以外のトレーニングをどのようにするか。

"触"においてはボールに触り、キックやドリブル、シュートなどなど、また相手に触りコンタクトを取ったりしてトレーニングをする。
子供の頃から、来る日も来る日もリフティングやコーンドリブルなどトレーニングをしてきた。

しかしながら、"視"(見ること)や"聴"(聞いたり話したり)などに特化したトレーニングをしてきたことは無い。
特化したトレーニングは無いかもしれないが、サッカーのトレーニングにおいては"視"と"聴"は相当必要、特に"視"(見る、観る)は自分自身で情報収集する唯一の武器。

"聴"は味方から情報収集するため、味方の話す(コーチング)技術が必要。

指導者は、五感ではなく三感を強く意識したトレーニングを取り入れていくことが必要である。
この三感を強く意識してトレーニングメニューを組み立てると、選手たちにとってはかなり楽しいトレーニングができるはず。

更に選手達自身も、三感の意識が重要であることを再認識することであろう。
小崎 峰利

2022年4月8日金曜日

高梨沙羅さん

北京オリンピックの混合ジャンプで前代未聞の事が起こった。ジャンプ競技では良くあるというスーツの規定違反。

これで5人の女子選手が失格となり、高梨沙羅さんも失格でメダルを逃した。

一連の中身が報道されると何かスッキリしない検査方法。
事前検査であれば未然に防げた。
抜き打ち検査で失格になるのも何か解せない。
検査方法も非科学的な検査で平等性にも欠けている感がする。

何かモヤモヤ感が満載。
どこかで似たようなことがある。

交通違反の取り締まりとよく似ている。
事故を起こさないために事前に警告すればいいのに、隠れてスピード違反や一旦停止を取り締まる。
事故が起きてからでは遅い。
本質は事故を起こさない、起こさせないためにが本来の目的である。

オリンピックという4年に一度の大会に向けてひたすら努力をしてきたアスリート達が、競技そのものを否定するかのような方法で失格させるという暴挙。

選手の皆さん、大会本部、競技本部に今後の検査方法の是正を唱えてほしい。

高梨沙羅さんは、個人ノーマルヒルでの失意の中、素晴らしいジャンプをしたのにもかかわらず、この仕打ちは可哀想でならない。

そんな状況下でも最高のパフォーマンスで競技を終えた日本選手たちに拍手を送りたい。
小崎 峰利

羽生結弦さん

北京オリンピックのフィギュアスケート。鍵山さんが銀メダル、宇野さんが銅メダル、ネイサンチェンさんが金メダル、ショートプログラムでの不運が響き、羽生さんは第4位と残念な結果に終わった。

しかしながら、多くの人達が彼のチャレンジを賞賛しているはず。

それもそのはず、今回のチャレンジだけではなく、長年フィギュアスケート界を牽引してきたこと、人として色々な気遣いが出来、また柔かな人柄が人々を惹きつける。
だが、今回の結果は不運なのかもしれない。

ただ、今回は「あれ?」と思うことがある。

宇野さんや鍵山さんのメダル獲得インタビューにおいて、お互いのリスペクトとネイサンチェンさんの存在がことある度に名前が出てくるが、殆どのインタビューで羽生結弦さんの名前というか、羽生さんをリスペクトする言葉が全然出てこなかったことにかなりの違和感を覚えた。
彼の存在無くして、現在の日本のフィギュアスケート界の躍進は無かったと言っても過言ではないにもかかわらず。

穿った見方かもしれないが、今回は羽生結弦さんは4回転アクセルのチャレンジを含む、個人に特化したため、団体戦にもエントリーせず、北京入りも遅らせ、全てを日本の為というより羽生結弦の集大成を最優先させた為、羽生結弦の名前が彼らの言葉に出なかったのではないかと感じてしまった。
そこがちょっと日本人として残念だった。

ネイサンチェンの存在をリスペクトした上で、羽生結弦の偉大さを日本の選手として最大限のリスペクトをしてもらいたかったのは私だけではないだろう。

羽生さんは、「努力は報われなかったな」と言っていたが、彼のアスリートとしての人生は間違いなく報われた人生だと信じて疑わない。
小崎 峰利

2022年3月3日木曜日

高校サッカー

第100回高校サッカー選手権が行われた。

コロナ禍において、高校サッカー選手権が開催された事はある意味素晴らしい

夏のインターハイでは、コロナの影響で出場を辞退せざるを得ないチームがあった事を覚えてるだろうか?
当時ルールとはいえ、とんでもない悲しい運命だったと思う。

高校サッカーは当然勝負がある。
負けて悲しむ選手を見るたびに、県の代表になって本番で勝つにしろ負けるにしろ、さあこれからという時に出場辞退をしたチームは、きっと負けるより悔しいはず。
そのような事を考えながら、100回大会を観戦した。

選手達の清々しいプレーを見ていると、高校サッカーに向かう年代を指導している身としては、どんな事にぶつかろうとも、それを受け入れなければならないこともある。
だけど一生懸命取り組む事が、清々しいプレー、終わった後の清々しさを生むという事を教えていくのも大事だとつくづく思う。

高校サッカーから学んだり、考えさせられる事は沢山ある。
高校サッカーは日本の文化である。
小崎 峰利

2022年2月18日金曜日

とにかく勉強

 指導者も常に勉強すべき。

「学ぶ事をやめたら教えることもやめなければならない」(ロジェ・ルメール) という言葉があるくらい。 

サッカーでも会社でも組織はそういうもの。
その観点からいくと、アマチュアサッカーにおいては勝利と育成および人間形成。 企業においては利益と発展、もう一つは人材育成があろう。

指導者は、学んで、我慢して、何を教えるかを相手のレベルに応じて、言葉と語彙力を駆使して対応すべし。
このような努力をして、上達の効率を良くすることができれば良い指導者であり、また良い上司という事になる。

十人十色という言葉がある。 同じ事を教えるにも伝達方法は10人に対しては10の方法があると思う。

厳しくかつ優しく。
やっぱり指導は難しいな。
小崎 峰利

2022年2月9日水曜日

ルール

コロナ禍においてアマチュアスポーツ界は難しい局面に立たされている。

全体的には、コロナに対する考え方が徐々に何となく緩くなっている。
しかし、現状は依然として楽観できないようでもある。

人間は、自分も含めて慣れてくると甘くなる性質を持っている。

スポーツを通して社会を学ばせる。
また、競技の中においては、技術など競技力向上を目指すのは当たり前
その中で色々なルールが設けられている。
サッカーでルールを守らなければ、イエローカード、レッドカードなど罰が与えられる。

例えば、熱中症に対する指針がサッカーにおいても、より具体的に示された。
その指針には、ある数値を超えたら競技を中止又は延期とする、というルールが設けられた。
これは今良く使われる言葉で、安心安全を最優先するという理由での事である。

育成年代の指導者にもかかわらず、運営面や勝負などに拘り、命という最優先させなければならない事を後回しにしようとする人がいる。

プロフェッショナルの世界においても、最優先させなければいけないのは命である。

コロナ禍においてはルールの設定が難しく、安心安全に行うという何となくファジーな中で判断を迫られている
だが、熱中症など明らかに直接的に命にかかわるルールを安易な考えで守らない大人がいる事も事実である。

ここをファジーにしてはいけない。
やはりルールは守るべき必要があるからルールなのである。
改めてルールを守る事の大切さを考えていかなければいけない。
小崎 峰利

2022年1月12日水曜日

自分の為に、人の為に

"自分の為に"という考えを強調すれば、わがままとか自分勝手とか言われる。

また、"人の為に"を強調すれば、偽善とか、そんな事無理ですよ、とか言われる。

このご時世、コロナワクチン接種でも色々意見が分かれている。
ワクチンを打つべき、いや打ちたくない。

どちらも個人の自由だ。

しかしながら、自分の為に打ちたくないという人もいる。
でも、人の為に打つべきだという人もいる。

コロナにかからないために"自分の為に"ワクチンを打つ。
コロナを移さないために"人の為に"ワクチンを打つ。

どちらも正解。

自分の為にも人の為にも必要ならば、ワクチンを打とうが、打たなかろうがどとらにも配慮できる行動をすべき。
ワクチンを自分自身の身体とか副反応の為に打たないという人は、万一に備えてコロナにかからない最高の対策をすると共に、コロナを絶対に移さないという対策及び行動を徹底させるべき。

ワクチンを打つべきだから打ちました、という人は、ワクチンを打たなければならないのではないか、と文句言う事なかれ。
ワクチンを打たないという人に対しての最大限の配慮をして、ワクチンを打ったから大丈夫という考えも禁物。
彼らのために精一杯の感染対策を実施すべき。

このように"自分の為に"と"人の為に"を同時に考える発想ができれば、ちょっとは成長するかもと思います。

"自分の為に"は"人の為に"になるはずでなければならないと考える。
小崎 峰利