2025年11月13日木曜日

確実か不確実か

最近のサッカーは、当たり前のように確実なプレーを求められる。

もちろん状況にもよる。
スペースが無く、相手に囲まれてしまったような場面はともかくとして、後ろではなく前へのチャレンジボールだとしても、「無理ならやめる」というフレーズが育成年代、特に小中学生のカテゴリーでよく聞く。

選手がチャレンジして縦パスを入れたり、スルーパスを選択して失敗でもしようものなら先程の言葉が出てくる。

優先順位として縦パスを選択した訳なので、そこでの失敗の原因を考えさせる。
確かに失敗から相手のカウンターに繋がり失点はあり得るが、まずもって選手のチャレンジを悪としてはならないのではないかとたまに思う。

サッカーは不確実を伴うチャレンジが面白いのである。
小崎 峰利

2025年10月9日木曜日

年輪

色々な場面でサッカー観戦をする場面がある。
私の場合は育成年代のゲームやトレーニングがほとんど、というより100%小学生から大学生。

そんななか、その育成年代を教えている指導者の方に目線がいく事も多い。
コーチングの中味と外味を見聞していると、「なるほど」と思うことも多いのであるが、言い方にトゲがあるように感じることが少なからずある。

若い木は硬い(堅い?)。
だけど年輪が沢山ある木は柔らかい。

まさに歳を重ねた私は柔らかになってきた。
同時に若かりし自分を振り返ると、怖い監督とよく言われたがトゲは無かったなぁと自負することもある。

最近の若い指導者の物言いを聞いているとトゲがあり、余分な説明が多すぎる気がしてならない。

若くして年輪を多くすることはできない。
しかし、年輪が沢山ある人の物言いやリズム、早口よりもゆっくり目などなど、学ぶ事はきっと多いはず。
参考にされたし。
小崎 峰利

2025年9月18日木曜日

勝手なものだ

指導者の端くれとして、最近はチーム全体を俯瞰して観る立ち位置を取ることがほとんどとなってきた。

以前は自分で指示を出し、選手ができるようにと模索してトレーニングをしたり、出来なければ叱ったりながらやらせたりしてきて、それでも叱り過ぎてもダメと何となく思いながら、選手に対して噛み砕いて説明をして、また何故叱らなければいけないかを説いてきた。

私の場合は、プレーでできなかった事、すなわち技術的なミスやポジショニングのミスなどに対して叱ることは無く、ミスした後の行動、取り返しに行くとか、また皆で攻める、皆で守るという様な場面でもそれを意識的に出来ない、メンタルが頑張れなくてプレーを止めてしまうとかに対しては真剣に叱ってきた。

俯瞰して観る立ち位置において若き指導者を見ていると、ミスをしたり、出来ないことそのこと自体を叱る指導者を散見する。

常にポジティブに選手が出来るようにコーチングをしてもらいたいとつくづく思う。
出来ないから教える。
出来る人も出来ない人も混在しているのがチーム。

われわれ指導者、特に育成年代の指導者は、選手が出来るようになるために常にプラスになるコーチングをしなければいけない。

これも歳をとって経験が多くなって改めて強く感じる。
若い頃は客観的に観られず、熱さを全面に出してきた。

人間は本当に勝手なものだ。
すんなり受け入れられる選手もいたはずだが、心が折れた選手もいただろうに、と思う今日この頃である。

小崎 峰利

2025年8月21日木曜日

一瞬の輝き

アスリートは一瞬の輝きの為に、とんでもない時間を費やして努力をし続ける。

しかし、その一瞬の輝きが幾度となくあったとしても、それが勝利に結びつくとは限らない。

我々が取り組んでいるサッカーという競技に例えても、ある選手がとてつもない努力をしてきて90分の中で一瞬の輝きを放ったとしても、それが勝利に結びつかず、また、その輝きを一瞬の不真面目さやミスが消してしまう事もたくさんある。

スポーツは何と理不尽なことか。

だが、自分なり仲間達がそのミスを打ち消すような新たな輝きを放つことによって、勝利を手繰り寄せることができるのもチームスポーツの醍醐味であろう。
永遠ではない、たった90分。
この90分の中で勝敗は決まるのだ。

人生においても同じであろう。
ミスも失敗もあり、一瞬の輝きもあるはず、また、家族や仲間との関係、これが一生続くのである。
我々は一瞬の輝きの為に今日も頑張ろう。
小崎 峰利

2025年7月11日金曜日

たまたま

トレーニングや試合でスーパーなプレーが出たり、スーパーなシュートが入ったりする。

スタッフもチームメイトも「たまたまだよな?」とか言い、「たまたまだよ」と皆が反応するシーンを目にする。

昔から言ってきた。「たまたま」でも実力だよ。
結果としてスーパーな事をやったのであれば、それは紛れもない実力である。
実力もないのにスーパーなプレーができるはずがない。

「たまたま」とならないようトレーニングをし続ければ確実にそれが身につき、その選手にとって「たまたま」ではなくなるはずだ、と言ってきた。

それを「たまたま」で終わらせてしまう選手と、信じてトレーニングをし続けた選手の差が明らかになっていく現実を目の当たりにしてきた私としては、「たまたま」と言われる場面に遭遇したら、必ずそれは実力であるという事を強調し、その後のトレーニングに繋げる話をしている。

選手たちは騙されたような感覚の中でも、真剣に取り組むことで「たまたま」が「常に」に変わると信じている。
小崎 峰利

2025年6月10日火曜日

人を伸ばす

最近は、誉めて伸ばす事が主流になってきている。

昔は、良くも悪くも叱咤しながら伸びてこい、というのが横行というか基本の時代があった。
私の時代はそれをベースに現代の指導の仕方になりつつある。

しかしながら、振り返ってみれば私自身は今も昔も何も変わっていないと考える。

確かに昔は叱咤する事の方が多かった気がするが、良い事はいい、悪い事は悪い、何が良くて何が悪いかを判断する我々指導者は良い悪いの区別を勉強し続けなければ務まらない。

それと共に、選手の性格を理解しなければならない。
叱咤する事の方がプラスになる選手もいれば、叱咤する事にアレルギー反応を示す選手もいる事を知らなければならない。
特に現代は、そのような人間が増えてきている事を肌で感じるようになった。

怒られる、叱咤されることに慣れていないというか、叱咤する事がいけない事、叱咤してはいけない事として扱われている感が否めない。

そうじゃなくて誉め方、叱り方を学べば事は済む。
ただこれが難しい事は事実である。

人を伸ばすことの難しさは今も昔も変わらないが、私は昔からそれが比較的出来ていたように感じるのは、ただの自己満足だろうか。
小崎 峰利

2025年5月14日水曜日

中途半端

指導者としてというか、心理的、性格的な観点から最近のサッカーにおける各カテゴリー(主に中学生と大学生)の選手を見ていると、何故これほど中途半端と思わざるを得ない選手の多いことか。

トレーニングが始まる頃の時間に来て、どれだけ言っても準備は中途半端。
また、トレーニングそのものも言われたメニューを良く言えば淡々とこなし、どう見ても抑揚のないパフォーマンスに終始し、トレーニングが終わったらダウンもいつも通りに流れでこなす。

中学生に限っては、親御さんに聞いてもボールを持って遊びに行く、自主トレに行くなんていう選手は皆無。

大学生においても、一部の上を目指したいと公言している選手にしても必死さというか、鬼気迫るものなど微塵もない。

サッカーというスポーツが、昔に比べメジャーなスポーツの仲間入りをし、誰しもが海外のサッカーを見られる時代になり、普通にトレーニングをこなせばそこそこになると勘違いし、上手くいかなくなれば諦めるというか、他に目が行く。
いわゆる負けず嫌いの子供が減り、そこまで苦しい思いをしなくても普通に過ごせる。
チャレンジも出来なければ、せめて派手さは無くてもコツコツと地道に努力を重ねてさえいけない。

このような中途半端な青年が多くなってきているように思えてならない。
われわれ指導者というか大人は、このような選手達に多くを語りかけ、何とか自分を確立する為の手助けをすべきであるとつくづく思う歳になった。
小崎 峰利