2022年3月3日木曜日

高校サッカー

第100回高校サッカー選手権が行われた。

コロナ禍において、高校サッカー選手権が開催された事はある意味素晴らしい

夏のインターハイでは、コロナの影響で出場を辞退せざるを得ないチームがあった事を覚えてるだろうか?
当時ルールとはいえ、とんでもない悲しい運命だったと思う。

高校サッカーは当然勝負がある。
負けて悲しむ選手を見るたびに、県の代表になって本番で勝つにしろ負けるにしろ、さあこれからという時に出場辞退をしたチームは、きっと負けるより悔しいはず。
そのような事を考えながら、100回大会を観戦した。

選手達の清々しいプレーを見ていると、高校サッカーに向かう年代を指導している身としては、どんな事にぶつかろうとも、それを受け入れなければならないこともある。
だけど一生懸命取り組む事が、清々しいプレー、終わった後の清々しさを生むという事を教えていくのも大事だとつくづく思う。

高校サッカーから学んだり、考えさせられる事は沢山ある。
高校サッカーは日本の文化である。
小崎 峰利

2022年2月18日金曜日

とにかく勉強

 指導者も常に勉強すべき。

「学ぶ事をやめたら教えることもやめなければならない」(ロジェ・ルメール) という言葉があるくらい。 

サッカーでも会社でも組織はそういうもの。
その観点からいくと、アマチュアサッカーにおいては勝利と育成および人間形成。 企業においては利益と発展、もう一つは人材育成があろう。

指導者は、学んで、我慢して、何を教えるかを相手のレベルに応じて、言葉と語彙力を駆使して対応すべし。
このような努力をして、上達の効率を良くすることができれば良い指導者であり、また良い上司という事になる。

十人十色という言葉がある。 同じ事を教えるにも伝達方法は10人に対しては10の方法があると思う。

厳しくかつ優しく。
やっぱり指導は難しいな。
小崎 峰利

2022年2月9日水曜日

ルール

コロナ禍においてアマチュアスポーツ界は難しい局面に立たされている。

全体的には、コロナに対する考え方が徐々に何となく緩くなっている。
しかし、現状は依然として楽観できないようでもある。

人間は、自分も含めて慣れてくると甘くなる性質を持っている。

スポーツを通して社会を学ばせる。
また、競技の中においては、技術など競技力向上を目指すのは当たり前
その中で色々なルールが設けられている。
サッカーでルールを守らなければ、イエローカード、レッドカードなど罰が与えられる。

例えば、熱中症に対する指針がサッカーにおいても、より具体的に示された。
その指針には、ある数値を超えたら競技を中止又は延期とする、というルールが設けられた。
これは今良く使われる言葉で、安心安全を最優先するという理由での事である。

育成年代の指導者にもかかわらず、運営面や勝負などに拘り、命という最優先させなければならない事を後回しにしようとする人がいる。

プロフェッショナルの世界においても、最優先させなければいけないのは命である。

コロナ禍においてはルールの設定が難しく、安心安全に行うという何となくファジーな中で判断を迫られている
だが、熱中症など明らかに直接的に命にかかわるルールを安易な考えで守らない大人がいる事も事実である。

ここをファジーにしてはいけない。
やはりルールは守るべき必要があるからルールなのである。
改めてルールを守る事の大切さを考えていかなければいけない。
小崎 峰利

2022年1月12日水曜日

自分の為に、人の為に

"自分の為に"という考えを強調すれば、わがままとか自分勝手とか言われる。

また、"人の為に"を強調すれば、偽善とか、そんな事無理ですよ、とか言われる。

このご時世、コロナワクチン接種でも色々意見が分かれている。
ワクチンを打つべき、いや打ちたくない。

どちらも個人の自由だ。

しかしながら、自分の為に打ちたくないという人もいる。
でも、人の為に打つべきだという人もいる。

コロナにかからないために"自分の為に"ワクチンを打つ。
コロナを移さないために"人の為に"ワクチンを打つ。

どちらも正解。

自分の為にも人の為にも必要ならば、ワクチンを打とうが、打たなかろうがどとらにも配慮できる行動をすべき。
ワクチンを自分自身の身体とか副反応の為に打たないという人は、万一に備えてコロナにかからない最高の対策をすると共に、コロナを絶対に移さないという対策及び行動を徹底させるべき。

ワクチンを打つべきだから打ちました、という人は、ワクチンを打たなければならないのではないか、と文句言う事なかれ。
ワクチンを打たないという人に対しての最大限の配慮をして、ワクチンを打ったから大丈夫という考えも禁物。
彼らのために精一杯の感染対策を実施すべき。

このように"自分の為に"と"人の為に"を同時に考える発想ができれば、ちょっとは成長するかもと思います。

"自分の為に"は"人の為に"になるはずでなければならないと考える。
小崎 峰利

2021年12月21日火曜日

静と動

東京オリンピックが終わって、早くも次の北京オリンピックが近づいている。

オリンピックでの白熱した戦い振りなどを見ていると、コロナ禍という事も忘れそうになってしまう。

アスリートの活躍だけではなく、全てのオリンピアに我を忘れて感動する。


東京オリンピックが始まる前に、コロナでオリンピックはやらない方がいいんじゃないかなと思っていた。
世間もそのような風向きでもあった。

日本がそれでもオリンピックを開催すると言い切った時には首を傾けた。

しかしいざ始まってみると、コロナで苦しんでいる人には申し訳ないが、スポーツでの感動は勝ち負けに関わらず、感動が優先した。

オリンピックをやらないという考えの「静」かオリンピックをやるという考えの「動」か、どちらが正解かは分からないが、終わってみれば暗いだけのコロナ禍において、ささやかというかスポーツから貰うさわやかなひと時であったと感じざるを得なかったのも事実である。

日本の判断も難しかったんだろうな。

この賛否は今後も続くであろう。
小崎 峰利

2021年12月8日水曜日

高い目標への向き合い方

高い目標、低い目標。

スポーツなどにおいては、高い目標(夢)と現実的な目標を立てる事が普通。
仕事においては、目標を誰が設定するかによって高い低いが違ってくる。

高い目標への向き合い方は、高いが故に達成するのが難しかったり、困難である事に思い悩んだりするものである。

チームなどの組織に高い目標を設定されたら、自分なりに目標を設定し直すと良い。
それであれば悩んだり難しいと感じる前に、一段ずつ登っていくということにより、達成感と次へのモチベーションを保てることになる。

全てにおいて考え方の方向を変えられるシステムを自分自身で構築することが良い。
かなり難しいが、やり続けることによって考え方に柔軟性が備わる。

困難にぶつかるとまず不安になったり、出来なかったらどうしようと思い、頭や手が動かなくなる人が多い。

とにかく、やらなければどういう弊害が起こりうるか考えることができれば、頭(思考)が動く。
頭が動けば手足が動く。

そこでその困難が、どれくらいの困難かが初めて把握できる。
こうなればストップすることはない。
スピード感が上がれば、経験値が上がる。
それの繰り返しが成功につながるし、経験を積むということになる。

それと困難にぶつかった時、まずもって知恵を授かるという手段を講じる。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
この精神で聞きまくる。
これは聞く方も聞かれる方も勉強になる。相乗効果ということである。

基本的に人間は困難から目を背けたり、逃げ出したりするのが普通。
しかしながら、その普通がどういう結果をもたらすかを研究したり、教えてもらったりすれば逃げ出すことのリスクの大きさを知ることになる。
そうすれば逃げたほうが恐ろしい、と教えて貰えば自ずとやらざるを得ない。

そういうルーティンで人生は回っている。

現在のオリンピックの勝者のコメントを聞けば一目瞭然である。
勝利者じゃなくても、敗者のコメントでもよい。
我々の困難はオリンピアに比べたら、何でもない。

きついこと言えば、現在の我々が経験する困難は困難ではない。
本当の困難は、きっと今から訪れる。
小崎 峰

2021年11月24日水曜日

脱皮

日本の文化には頑張る事の文化がある。

頑張る事は当たり前のことではあるが、過剰に頑張らせる事や、失敗に対する処罰など、叱咤激励の仕方には日本独特の方法があった。

私もかなり昔、緊張感を持たせるために、また、真剣に考えさせるために、厳しく接してきた記憶がある。
昔ながらのその方法は、日本では美学とされてきた歴史と文化がある。

今現在も時代の変化、文化の進化に追従できない指導者が散見される。
また、スポーツにおける安心安全にという最優先させなければならないことが疎かになっている節もある。

特に育成年代(部活動など)の指導は、選手の安心安全を最優先し、無理をしてでも全てを強行させることへの疑問。

時代は驚くほどの早さで進化している。
世界中では、間違った事にしっかりNGを出すことが当たり前の時代になってきている。

育成年代の全ての指導者(特に昔流の指導者)は、これらの事をしっかり認識し早く脱皮をした上で、新たな時代に沿った指導文化構築すべきである。
小崎 峰利