2025年12月4日木曜日

セレクト

これまで、数々のセレクションを見てきた。
セレクトする側、また、自分の教え子がセレクトされる側、両側から見てきた。

わずかな時間の中から見られるものとしては物理的なものが多い。
物理的なものといえば、背が高い、足が速い、テクニカル、身体が強いなどなど。(ポジショニング、視野の確保、危険察知などもう少し細かくはなると思うが)
しかしながら、それらはあくまでその時のストロングポイントであることを忘れてはならない。

セレクト後の成長度合いを考えると、一番大事なことは実直に成長しようと思うメンタリティである考える。
このポイントは、わずかな時間のセレクションからは見えづらい。
サッカーを終えた後の社会生活、更に仕事をしてお金を稼ぐということに至っては、誰でも当たり前に対応していかなくてはならないのではあるが、これがまた難しい。

まず最低でもコツコツ休まず働くなんて当たり前。
自分の都合を優先させる事も大事だが、優先順位や判断基準が分からない人が多くなる。

人生はいつもセレクトされているのが実情。
それを理解しつつ、今与えられた環境に対して真摯に取り組めることが何よりであると考える。
小崎 峰利

2025年11月13日木曜日

確実か不確実か

最近のサッカーは、当たり前のように確実なプレーを求められる。

もちろん状況にもよる。
スペースが無く、相手に囲まれてしまったような場面はともかくとして、後ろではなく前へのチャレンジボールだとしても、「無理ならやめる」というフレーズが育成年代、特に小中学生のカテゴリーでよく聞く。

選手がチャレンジして縦パスを入れたり、スルーパスを選択して失敗でもしようものなら先程の言葉が出てくる。

優先順位として縦パスを選択した訳なので、そこでの失敗の原因を考えさせる。
確かに失敗から相手のカウンターに繋がり失点はあり得るが、まずもって選手のチャレンジを悪としてはならないのではないかとたまに思う。

サッカーは不確実を伴うチャレンジが面白いのである。
小崎 峰利

2025年10月9日木曜日

年輪

色々な場面でサッカー観戦をする場面がある。
私の場合は育成年代のゲームやトレーニングがほとんど、というより100%小学生から大学生。

そんななか、その育成年代を教えている指導者の方に目線がいく事も多い。
コーチングの中味と外味を見聞していると、「なるほど」と思うことも多いのであるが、言い方にトゲがあるように感じることが少なからずある。

若い木は硬い(堅い?)。
だけど年輪が沢山ある木は柔らかい。

まさに歳を重ねた私は柔らかになってきた。
同時に若かりし自分を振り返ると、怖い監督とよく言われたがトゲは無かったなぁと自負することもある。

最近の若い指導者の物言いを聞いているとトゲがあり、余分な説明が多すぎる気がしてならない。

若くして年輪を多くすることはできない。
しかし、年輪が沢山ある人の物言いやリズム、早口よりもゆっくり目などなど、学ぶ事はきっと多いはず。
参考にされたし。
小崎 峰利

2025年9月18日木曜日

勝手なものだ

指導者の端くれとして、最近はチーム全体を俯瞰して観る立ち位置を取ることがほとんどとなってきた。

以前は自分で指示を出し、選手ができるようにと模索してトレーニングをしたり、出来なければ叱ったりながらやらせたりしてきて、それでも叱り過ぎてもダメと何となく思いながら、選手に対して噛み砕いて説明をして、また何故叱らなければいけないかを説いてきた。

私の場合は、プレーでできなかった事、すなわち技術的なミスやポジショニングのミスなどに対して叱ることは無く、ミスした後の行動、取り返しに行くとか、また皆で攻める、皆で守るという様な場面でもそれを意識的に出来ない、メンタルが頑張れなくてプレーを止めてしまうとかに対しては真剣に叱ってきた。

俯瞰して観る立ち位置において若き指導者を見ていると、ミスをしたり、出来ないことそのこと自体を叱る指導者を散見する。

常にポジティブに選手が出来るようにコーチングをしてもらいたいとつくづく思う。
出来ないから教える。
出来る人も出来ない人も混在しているのがチーム。

われわれ指導者、特に育成年代の指導者は、選手が出来るようになるために常にプラスになるコーチングをしなければいけない。

これも歳をとって経験が多くなって改めて強く感じる。
若い頃は客観的に観られず、熱さを全面に出してきた。

人間は本当に勝手なものだ。
すんなり受け入れられる選手もいたはずだが、心が折れた選手もいただろうに、と思う今日この頃である。

小崎 峰利

2025年8月21日木曜日

一瞬の輝き

アスリートは一瞬の輝きの為に、とんでもない時間を費やして努力をし続ける。

しかし、その一瞬の輝きが幾度となくあったとしても、それが勝利に結びつくとは限らない。

我々が取り組んでいるサッカーという競技に例えても、ある選手がとてつもない努力をしてきて90分の中で一瞬の輝きを放ったとしても、それが勝利に結びつかず、また、その輝きを一瞬の不真面目さやミスが消してしまう事もたくさんある。

スポーツは何と理不尽なことか。

だが、自分なり仲間達がそのミスを打ち消すような新たな輝きを放つことによって、勝利を手繰り寄せることができるのもチームスポーツの醍醐味であろう。
永遠ではない、たった90分。
この90分の中で勝敗は決まるのだ。

人生においても同じであろう。
ミスも失敗もあり、一瞬の輝きもあるはず、また、家族や仲間との関係、これが一生続くのである。
我々は一瞬の輝きの為に今日も頑張ろう。
小崎 峰利

2025年7月11日金曜日

たまたま

トレーニングや試合でスーパーなプレーが出たり、スーパーなシュートが入ったりする。

スタッフもチームメイトも「たまたまだよな?」とか言い、「たまたまだよ」と皆が反応するシーンを目にする。

昔から言ってきた。「たまたま」でも実力だよ。
結果としてスーパーな事をやったのであれば、それは紛れもない実力である。
実力もないのにスーパーなプレーができるはずがない。

「たまたま」とならないようトレーニングをし続ければ確実にそれが身につき、その選手にとって「たまたま」ではなくなるはずだ、と言ってきた。

それを「たまたま」で終わらせてしまう選手と、信じてトレーニングをし続けた選手の差が明らかになっていく現実を目の当たりにしてきた私としては、「たまたま」と言われる場面に遭遇したら、必ずそれは実力であるという事を強調し、その後のトレーニングに繋げる話をしている。

選手たちは騙されたような感覚の中でも、真剣に取り組むことで「たまたま」が「常に」に変わると信じている。
小崎 峰利

2025年6月10日火曜日

人を伸ばす

最近は、誉めて伸ばす事が主流になってきている。

昔は、良くも悪くも叱咤しながら伸びてこい、というのが横行というか基本の時代があった。
私の時代はそれをベースに現代の指導の仕方になりつつある。

しかしながら、振り返ってみれば私自身は今も昔も何も変わっていないと考える。

確かに昔は叱咤する事の方が多かった気がするが、良い事はいい、悪い事は悪い、何が良くて何が悪いかを判断する我々指導者は良い悪いの区別を勉強し続けなければ務まらない。

それと共に、選手の性格を理解しなければならない。
叱咤する事の方がプラスになる選手もいれば、叱咤する事にアレルギー反応を示す選手もいる事を知らなければならない。
特に現代は、そのような人間が増えてきている事を肌で感じるようになった。

怒られる、叱咤されることに慣れていないというか、叱咤する事がいけない事、叱咤してはいけない事として扱われている感が否めない。

そうじゃなくて誉め方、叱り方を学べば事は済む。
ただこれが難しい事は事実である。

人を伸ばすことの難しさは今も昔も変わらないが、私は昔からそれが比較的出来ていたように感じるのは、ただの自己満足だろうか。
小崎 峰利

2025年5月14日水曜日

中途半端

指導者としてというか、心理的、性格的な観点から最近のサッカーにおける各カテゴリー(主に中学生と大学生)の選手を見ていると、何故これほど中途半端と思わざるを得ない選手の多いことか。

トレーニングが始まる頃の時間に来て、どれだけ言っても準備は中途半端。
また、トレーニングそのものも言われたメニューを良く言えば淡々とこなし、どう見ても抑揚のないパフォーマンスに終始し、トレーニングが終わったらダウンもいつも通りに流れでこなす。

中学生に限っては、親御さんに聞いてもボールを持って遊びに行く、自主トレに行くなんていう選手は皆無。

大学生においても、一部の上を目指したいと公言している選手にしても必死さというか、鬼気迫るものなど微塵もない。

サッカーというスポーツが、昔に比べメジャーなスポーツの仲間入りをし、誰しもが海外のサッカーを見られる時代になり、普通にトレーニングをこなせばそこそこになると勘違いし、上手くいかなくなれば諦めるというか、他に目が行く。
いわゆる負けず嫌いの子供が減り、そこまで苦しい思いをしなくても普通に過ごせる。
チャレンジも出来なければ、せめて派手さは無くてもコツコツと地道に努力を重ねてさえいけない。

このような中途半端な青年が多くなってきているように思えてならない。
われわれ指導者というか大人は、このような選手達に多くを語りかけ、何とか自分を確立する為の手助けをすべきであるとつくづく思う歳になった。
小崎 峰利

2025年4月17日木曜日

スプリント

ここぞという場面のスプリントをするかしないか、できるかできないか。

このスプリントの大事さを、スプリントする選手以外もしっかり理解しているかどうか。

スプリントさせる事もチーム力。

スプリントした後、結果的に上手くいかなかったとしても、スプリントしたことが必ずや報われてくることを我々指導者は理解させなくてはいけない。
ショートスプリント、ミドルスプリント、ロングスプリント、いかなるスプリントもチーム力として蓄積される。

スプリントは、攻撃にも守備にも必要。
ボールに関わる選手のみのスプリントでは物足りない。
攻撃でも守備でもスプリントする枚数が増えれば、二重にも三重にも厚さは増す。

単純なことではあるが、これが出来ないんだな。
小崎 峰利

2025年3月12日水曜日

基本練習

基本練習のクオリティが疎かになっている。 
というか、最近大学生の基本トレーニングを見ていると3種類のクオリティに気がつく。

例えば、フィジカル要素、ボールコントロール、なおかつキックのクオリティを上げる為の複合的なトレーニングを実施する。

その3要素の意図を理解して、更に効果をイメージしてトレーニングできる選手。
フィジカル要素を含んだトレーニングもそれなりにやってはいるが、ただ普通にやっている選手。
ボールコントロール要素についても、止めどころや止め方を何気にやっている選手。
キックも、ただ蹴っているだけの選手。

はたまた、全てに関して、とにかく一生懸命やる選手。
この一生懸命は大事なことではあるが、硬くなってしまってぎごちなく、リラックスできてない。また頭は使ってなく、考えながらのトレーニングになっていない。

基本トレーニングと言えども、考えて取り組む事が肝要である。
小崎 峰利

2025年2月21日金曜日

歳の取り方

JFAニュース2025年1月号で興味深い記事(サッカー讃歌、美しいサッカーを)を読んだ。 
帝京長岡高校総監督である谷口さんの記事。 

育成年代という前提であるが、レフェリーのジャッジに一切異議を唱えず、はたまた自チームに有利となる判定が下された場合、それがプレーヤー本人しか分からない真実をレフェリーに伝え、自チームが不利になっても正直に申告する。 

どんなジャッジにも不平を言わず次のプレーに切り替える。
勝敗の結果にかかわらず、最後にレフェリーをリスペクトしてゲームを終わる。 

当然ながら、谷口さん自身も勝利を目的としていたので、昔はレフェリーに対しても不平不満を言っていた自分がいたが、最近は帝京長岡高校のそのような振る舞いが身に付いてきたとおっしゃっている。

「心美しく勝つ」 

我がチームは「品格を持って大人と為す」
全くの同感である。

私が言うのも変だが、彼も良い歳の取り方をしているなあと感じた記事である。
小崎 峰利 

2025年1月21日火曜日

練習参加

近年、大学の練習参加に来る高校生が増えてきた。有名高校の選手、また無名高校の選手、大学サッカーというより、当たり前に上を目指したいという選手が多い。

練習参加を終えて感想を聞くと、強度も高く、スピードも早いのでキツかった、また技術が高いと感じました、などとそれなりに的を得ている。

そのような選手達に対して必ず言うことがある。

ここの大学(チーム)もまだまだだよ。
違いを感じられた事が1番で、その違いをどのように埋めていったらいいのか、自分で考え、スタッフに問い掛け、努力をしてこの大学(チーム)にきて!
もっと伸びるようにしてあげるから。
もっと大人にしてあげるから。
ただ、アドバイスはするけど、実践して身につけるのは貴方だよ。

先輩達も同じように言って入ってきているが、練習参加の時に感じた事を本当に受け止める事が出来ず、ダラダラとした学生生活とサッカー生活をする選手が多い年代はチームもレベルアップできない。

その感覚の選手が少なくなってきたゆえに、ようやく上を目指せるようになってきた。

これからも、フレッシュな選手が、フレッシュなまま、上を目指せる空気感を保てる努力をしたいと考える老指導者でした。
小崎 峰利

2024年12月27日金曜日

サッカーを楽しむ

 最近、サッカーや他競技のプロ選手が、メディアのインタビューなどで「上手くなる秘訣は?」という問いに対して、”楽しむべきである”という言葉がよく出てくる。
もちろん、”楽しむべき”と私も思うのだが、”楽しむ”の定義は人それぞれである。 

プロサッカー選手が考える”楽しむ”という感覚を、育成年代の選手に対してどのように教えていくのか?

幼少年代の”楽しむ”は、歳を重ねた私にもよく分かる。
ボールを触ったり、ドリブルをしたり、リフティングの回数が増えて楽しい。
ゲームをしてシュートが入って勝てば楽しい、などなど。

ただ、競技サッカーとして強化のレベルにおいての”楽しむ”をどのように理解させるのか? 
非常に難しく感じる。
近代サッカーは、ハードワークが当たり前。
ハードワークも楽しい、プレスバックも楽しい、カウンターでのロングスプリントも楽しい。

サッカーに限らず全ての競技において、上手くなりたい、強くなりたいと思い、その思いに向かってるプロセスそのものを、どんなに苦しくても楽しいと感じられる事が、”究極に楽しむ”ことなのではないかと考える。 

勝つか負けるかは、”楽しさ”の先に来るものと理解できれば、トレーニングのクオリティは上がると思っている。

 我々指導者は、サッカー競技における”本当の楽しさ”をどのように理解させる事ができるかが、とても重要なポイントになるはずである。
小崎 峰利

2024年11月13日水曜日

物言い

以前”話の術”というテーマで少し話をしたが、最近私の近くの熱いコーチを見ていると、本当に感心するぐらい熱心にコーチングをしている。

しかしながら、少し引っかかる事があるというか、違和感を覚える時がある。

自分自身では分からないだろうが、自分が辿ってきた道が基本だとすると、それを基本にコーチングをする。
出来て当たり前なのか、出来ないから教えるのか?勿論出来ないから教えるのである。
また、その中において、自身で考え判断することも要求する。

ただ物理的な事はやらないとそのレベルまで絶対にいかない。
パススピードしかり、止める事しかり、キックしかり、そこは意識して出来るように言う。

その時の物言いに違和感を感じる。

聴く側がなるほどと思い、納得するための物言いにはほど遠い。
やって当たり前だろ、やらないといけないだろ、とキツい物言いがやたら出てくる。

選手の歳が若ければ若いほど、これは考えなければいけない。

最近は大学生でも言葉に敏感というか、言葉に臆病な選手が多い。
時代背景なのか、教育現場の環境なのか、家庭での環境なのか、もう少し物言いのスキルを身につけないと、身に付かせようと思っても身につかない選手が沢山出るような気がしてならない。
勿論本物は残るが、本物になる途中で挫折もあり得る。

どちらが良いのか?
とにかく物言いは勉強しよう。

若い指導者よ。
選手の心に響き、頭に残る物言いを習得しよう。
自分のコーチングを録音して、後で聞いてみると良い。
意外とキツいぞ。
小崎 峰利

2024年10月2日水曜日

褒めて伸ばす

最近の傾向として”褒めて伸ばす”ということがよく言われる。

確かに褒めることは良いこと。
褒められれば嬉しいし、またやろうという気にもなる。

しかしながら、なぜ褒められているのかという本質的なことを理解できない選手もいる。
それは、結果だけを単純に褒めているからである。

大学生にもなれば、結果よりプロセスを褒めることで、その後の結果を産むというプロセス自体の理解にも繋がる。

大学生には、学校生活や社会生活の中に褒められてもよい行動などがいくらでも存在するという話をする。
学校生活を含む社会生活の中において、あいさつ然り、ゴミ拾い然り、予測と配慮然り、これらの行動が直接的に褒められる機会は少ないかもしれないが、必ず誰かが見ていてくれて自分の将来に繋がっているはずである。

時間を経て自分達に褒め言葉が返って来た時に、褒められることの実感とそのプロセスの大事さを知ることになる。
このような歩みが少なからず組織と自分を豊かにする。

”なぜ褒められているのか”という本質を具体的に理解させなければ、本当の意味で”褒めて伸ばす”ことにはならないのである。
小崎 峰利

2024年9月19日木曜日

話の術

私の周りには、有望か無謀か見極めにくい若い指導者が大勢いる。
熱心に自分の経験(レベルはともかく)、自分なりの勉強・ポリシーなどを背景として指導の現場に立っていると思われる。

指導の実践では、当然のことのように選手のレベルや状況によって話す内容はもちろん、話し方も言葉自体も変わってくるはずである。
しかしながら、客観的に見て、特に高いレベル(プロなど)や厳しいチームでプレーしてきた経験がある指導者ほど、「当たり前にできるもの」という前提で話をしたりコーチングをする傾向が強いと感じている。
そうすると、どういう事が起きるか。口調がキツくなり、怒ったような表現が多くなる。

分からなくもないが、言われた事がしっかり理解できていないのはもちろん、言われた事を充分に理解しようとしてプレーする選手ばかりではないのも現実である。
長い間教えてもらってきたはずだけど、実際は教えてもらっていない状態という選手が少なくないのである。

そのようなレベルの選手には「話の術」を駆使し、面倒ではあるがゆっくり丁寧に話をしていかないと、言われることに対するアレルギー反応をキッカケに不信や不満などが噴出してしまうケースが散見される。

現代の特に若い指導者は、選手のこれまでの教えられ方も把握したうえで、教えるための「話の術」を身に付ける必要があると感じる今日この頃である。

面倒な時代へ突入である。

小崎 峰利

2024年7月22日月曜日

勉強と経験

指導者にせよ、選手にせよ、成長したいなら勉強と経験が大事。

選手においては、勉強を多くした上で経験。
失敗の経験、成功の経験共に勉強。
勉強という言い方は堅苦しいが、監督やコーチからの一言一言をいかに吸収しようとするか、これが勉強。

この勉強を色々な場面で経験をする。
経験をして成功と失敗を繰り返す。
このようなルーティンでトレーニングとゲームを繰り返す。
特にトレーニングにおいて、どれだけたくさんの勉強をしようとするかで大きな差が生まれる。

よって指導者は、選手にどれだけ多くの勉強をさせられるか。
選手は、指導者の教えをいい形で受け止められなければ勉強した意味がない。

サッカーが上手くなりたいのに、また、サッカーを指導したいのに勉強をしない選手や指導者がいるのも事実である。
小崎 峰利

2024年6月6日木曜日

自分の市場価値?

自分自身の市場価値はどれくらいであろう?

サッカー指導者として全て生活してきたわけではないが、まがりなりにも今現在もサッカー指導者として活動させてもらっている。

教えられる選手側からしたら、どの様な価値観で教えてもらっているのだろう?

教えられる側の価値観をこの上なく高められるならば、サッカー指導者としての市場価値は少なからずあると思う。

私は民間企業で30年近く商社マンとして営業職についてきた。
その中で商品を売る仕事をしながら、その商品に付加価値を付けて売り上げを伸ばしただけではなく、様々な方達との付き合いの中で、人としての付加価値もつけてきたつもりである。
いわゆる労働の付加価値である。

自分の市場価値は、自分自身の付加価値で決まる。
サッカー指導者としての市場価値は、サッカーという商品プラス自分自身で経験をしてきた物語りや、失敗などが付加価値として市場価値を上げていくのである。

こんな言葉もあります。
「いいコーチになりたかったら、本を読みなさい。音楽を聴きなさい。絵を観なさい。」(アリゴ・サッキ)
小崎 峰利

2024年5月14日火曜日

小さな約束事

大学卒業後、会社に勤めてから長年営業職で学んだ事。
それは、小さな約束事をしっかり守る事。

これは人に学ばさせて貰ったというより、自分自身の性格として当たり前という感覚で行ってきた事である。

小さな約束事とは、例えば友人とのやり取りで「今夜電話するよ」というやり取りがあって、それを実行しないというか忘れてしまって、電話しなかったという事があったとしよう。言われた相手は、今夜電話があると思い待っていても電話が無かった。
また、仕事上でお客さんや仲間から「これちょっと調べて今度教えて」など、ともすれば大した約束事では無いともいえるが、この小さな頼まれごととか約束事を絶対に疎かにしない。
もっと厄介なのがお金。学生にありがちな話で、自販機を前にして小銭が無いので「ちょっと100円貸して」というやり取りがあって、待てど暮せど100円を返してこない。
借りた方は忘れることもある。これは最悪。忘れてはいけない。

何月何日の何時に試合があるとか、駅前で待ち合わせをするとかという約束は当たり前だが、ちょっと頼むよとか後で連絡するよとかの小さな約束事を100%守ってきたつもりである。(最近は歳のせいで忘却多しではあるが)
この大きかろうが小さかろうが、約束をしっかり守る事がどれだけ信頼関係の構築の礎になってきたか。

学生に言いたい。
サッカーも人生も一緒。
小さなパスも小さな約束事も同じ。
信頼関係を築くには、小さなことまでしっかりやることである。
小崎 峰利

2024年4月18日木曜日

有意識運動

有酸素運動という言葉はすでに定着をして、幅広い年齢層が有酸素運動をするようになった。

小中学生を中心とした育成年代の指導が長く、スキルトレーニングを多く経験してきたなかで、大学生を指導するようになってから、単純なパス、コントロールのトレーニングをやってみて最近特に思うことがある

単純なパスコンのトレーニングにもポイントをしっかり押さえて、なおかつクオリティにもこだわったりしっかりとした意識の上にトレーニングが行われてきていない現実が多くあるように思う。

確かに反復練習をさせてきたが、しっかりとした意識を持った上でやってこなかった選手のいかに多いことか。

今思えば、とにかく基本をしっかりやりましょうとかなりのくどさで指導をしてきた。
その中にも必ず精度、クオリティ、はたまた対人トレーニングにおいても、細かい指示に対して頭の中で必ず意識した上でトレーニングするようにと言ってきた。

これが「有意識運動」の意味である。
小崎 峰利