2020年1月31日金曜日

理不尽

サッカーのようなスポーツの世界では、よく”理不尽”という言葉が使われる

社会においても理不尽はそこらじゅうにある。
私も社会人生活を30年もしてきたのでよくわかるつもり。

しかし、理不尽にはこれといって基準がない。
例えば、選手が頑張っているのに試合に出られない、何で自分の方が上手いのにあの選手が試合に出てるんだ、
何であの選手がレギュラーで自分はサブメンバーなんだ、あの選手はチームの仕事もサボるし自分勝手で自分の方が真面目にやってるのに…、などなどとよく耳にする。

理不尽は基準がない上に見るものによっては全然別物になってくる

頑張っただけではレギュラーになれない。
でも頑張らなくてはレギュラーにもなれないし、本当の意味での本質が上がらないのも事実。

その理不尽という言葉に大義名分があり、それに甘えたり、文句を言う選手や大人がいる。
ここに落とし穴があることに気が付かないと、いつまでたってもレベルは上がらない。

とにかく、ひた向きに自分を信じてやり続けられるようにさせたい。
”理不尽”という言葉に惑わされないように!
小崎 峰利

2019年12月11日水曜日

生活習慣病

世の中には生活習慣病というやっかいな病気がある。
私もご多分に漏れず、生活習慣病なるものの兆候がある。

育成年代のサッカーにおける様々な動きにも生活習慣病に似た事が数多くある。

トレーニングの中で「プレス」「寄せろ」、ボールを奪われれば「切り替えろ!」などの言葉が行き交う。

ただ、その言葉と裏腹に寄せろと言われても現実的には寄せていない。
切り替えろと言われても切り替えているとは思えないのんびりさ。

指導者が指摘しても本人は一生懸命寄せてもいるし、切り替えてもいると考えている。
まさに生活習慣病である。

無意識にやってしまうから、また何気ない生活のようなトレーニングではスキルの質も上がらないし、サッカーにおける”闘う”という原点からは程遠くなってしまう。

特に育成年代におけるトレーニングでは、このような生活習慣病から脱却しなくてはいけない。
小崎 峰利

2019年11月1日金曜日

マナーとモラル

ジュニアから大学生まで、育成年代全てのカテゴリーの育成に携わってきて思うことがある。

サッカーにおいてはルールがある。

オフサイドなど客観的なファウル、身体がぶつかったときのレフェリーの主観が多少入ったファウルなどルールに基づいて試合は進行する。

社会においてはルールはもちろんのことマナーやモラルがある。
マナーはシチュエーションによって異なるものの行儀、作法である。
モラルは倫理、道徳のことである。

毎年中学生や大学生を連れて遠征に帯同する。その中で見ていると、いかに公共の場でのマナーやモラルについて全くといっていいほどなっていないかを実感する。

例えばホテルのロビーや大浴場での行い。
まるで回りに人がいない中での振る舞い。

最近は、家庭内、また学校において道徳や倫理、マナーやモラルについての指導が少ないからなのだろうか。

私は20年も前からそういう場所で、どのように振る舞うかを具体的に話をして来た。
大学生にもなってと思うが、聞いてみるとそのような具体的なことを教えてもらったことが少ないと思われる節がある。このような状況のまま大人になってしまうことは不幸であると感じる。
私が歳をとったせいなのかもしれないが、最近の遠征でこのように感じることが多い。

でもこのようなことに気付く選手は、必ずサッカーの上達が早くなり、チームメイトから信頼を得る選手に変貌することは間違いないと信じている。

我が教え子達は、サッカーの中でミニ社会を学ぶ。
小崎 峰利

2019年10月4日金曜日

真面目の基準

毎年3月に開催される名古屋フットボールクラブの卒業式となる送る会において、寄せ書きの監督の言葉として、ここ10年間くらいは「とにかく真面目にやってくれ!」と書いてきた。

その中学生が高校、大学へと進み、サッカーにおいても、学校生活においても、社会生活においても、真面目にやることがいかに難しく、しかしながら、いかに大切か、大学生の指導も行うようになって本当に分かってきた。

皆真面目にやって来たんだと思う。
しかしながら、その基準に高低差があることが分かった。

もちろん、高校での基準作りにも差があるとは思うが、その基準の高低をしっかり認識させ、また真面目の中味をいかに具体的に教えるのか。これは中学生までにやらなければいけないことと最近つくづく感じる。

大学生になっても熱心に説いてやれば、急激に大人になりサッカーもうまくなっていく。
ただ、技術は簡単には上手くならないのが少し残念ではあるが…。

上手くない選手を上手くするために、弱いチームを強くするためにやらなければならないことは、まず真面目にやることである。
小崎 峰利

2019年8月30日金曜日

スポーツと社会

指導者が必死になって取り組んでいるサッカー(スポーツ)は、どれだけ一生懸命に取り組んでも正解がなく、必ず勝てるとも限らず、必ず報われるとも限らずという大変なものに取り組んでいる。

にも関わらず、なぜ必死に取り組むのか、取り組ませるのか、それは将来訪れるであろう理不尽な社会、まだまだ頑張っても報われないことが多い社会に向けて、今からスポーツを通じてその壁をものともせずに頑張る気持ちだけは理解して、その壁をどうやって乗り越えることができるかという対応力を養うためであろう

頑張りすぎれば心も身体もおかしくなる人もいる。そんなときには少し頑張らないという対応を取らせる。
理不尽なことに出会ったら、その理不尽にどうやって対応したら良いのか、色々な人に相談をするという対応も教える。

とにかくスポーツと現代社会にはまだまだ正解がない。

しかしながらその社会に今から向かっていく若い人たちには、スポーツと社会の共通した仕組みを理解させ、正解のないサッカー(スポーツ)に取り組ませていきたい。
小崎 峰利

2019年7月5日金曜日

勉強

勉強とは無理にでも努力すること。強く努力することである。

サッカーシーンでトレーニング中、もしくは試合中に監督、コーチが色々とアドバイスする。
選手はうなずくかハイと返事をしてプレーに戻る。何処でも何時でも目にする光景である。

ただ、自分もこういうシーンを数えきれないほど経験してきて、あることに気が付いた。

うなずく事と返事をする事で、教える側も勉強する側も取り敢えず納得をしてしまい、その場が通り過ぎていく。後で「あの時」のことを選手に尋ねると大半の選手が覚えていない。

こういう勉強は勉強しているとは言えない。
そうすると、時間は無駄に流れる。

学校の勉強もサッカーの勉強も社会生活での勉強もすべて同じ。
無理をしてでも努力すること。
その真理を理解させることが、私達指導者の努めである。
小崎 峰利

2019年5月23日木曜日

KY

KYとは最近では「空気を読め」のKYで使われることが多いが、本来は「危険予知」のことである。

私は30年近くの社会人(サラリーマン)時代に、営業としてある大会社の担当として各地の製造工場を色々回らせてもらった。

その関係の方々とコミュニケーションをとるため、様々なイベントや講習に参加させて頂き、その中で結構得意とした分野が、危険予知の講習であった。

工場内の何気無い場所の絵が1枚出されて、この絵の中からどんな危険が潜んでいるか探して下さいというもの。週刊誌で見る間違い探しの要領で危険探しをするものだが、工場の従業員を差し置いて、ほとんどの問題をほぼ一番で探し当てていたものである。

それはサッカーにおいても非常に役にたっている。
サッカーシーンの中で、「あの選手は危険察知能力が高いよね」ということはよく聞く話である。

これからすると、このような予知は能力でもある。
しかし、社会でもこのような講習がある以上、経験と勉強によって身につくことであることは間違いない事実である。

私の座右の銘である[予測と配慮]もこの講習と経験から出たものである。

最近のテレビ関係では、空気を読めない人に対してKYを使う場面が多い。
ただ空気を読むのも経験と失敗しながら勉強することで空気を読めるようになるのである。
どちらの「KY」も大事。

我々サッカー関係者は、組織であるチーム、また、選手個人に対してどんな危険があるのか、試合の中でどこに危険があるのか、常に予測して対策を考えておかなくてはいけないと感じる。
これは、日々の生活の中で意識することによっても培われるものである
小崎 峰利